溺れる魚
この街に来てから雨が好きになった。
常に自分たちの環境を取りまく、眩しいくらいの光の渦や、煩いくらいの喧騒がフィルター越しに感じられるようになるから。
そんな話をしたとき、薫くんはそうか?と首を傾げただけだった。
摩天楼東京でしかありえない、無駄に高い高層マンション。
平米数からすればそんなに広いとも言えないそこに俺が居を構えたのは、眼下に見下ろせるこの街並が気に入ったから。
空はどこよりも近く、眼前に広がるパノラマは遥か彼方まで続く。
贅沢の極みと言ってもいいこの部屋を、俺は自分でも結構気に入っていた。
情事後を思わせる、上半身を曝したままジーンズだけを身につけた状態で。
俺は窓の枠に体をもたれかけさせたままでぼんやりと窓の外を見つめていた。
オレンジ色を基調に配置したライトは、全てつけていても暖かで穏やかな雰囲気を醸し出している。
ガラス状になった窓ガラスにうつる、甘くくしゃくしゃに乱れたベッドカバー。
先程までシーツの海に一緒になって潜っていた恋人は、シャワーを浴びにバスルームに向かったままだ。
地下作業が続き、思うように逢瀬も叶わずに。
手を伸ばして抱きしめることも、キスすることも、ましてや睦言をかわすことすら許されなかった日々からようやく解放されて、
つい先程まで散々薫くんを貪っていた。
時間もスケジュールも、何ひとつ俺たちの邪魔をしない、邪魔をさせないひとときは、言葉で表すよりもずっと濃密で、濃厚で。
もう腰がもたないと懇願されて、俺は渋々ながらもようやくその身体を離したのだった。
足元の覚束ない薫くんをバスルームまで運んで、出てくるのをしつけの行き届いた犬のようにおとなしく待っている。
ベッドの軋む音と、薫くんの嬌声がまだ耳に残った状態で聞こえてくる雨音は、ただひたすらに静かで。
水滴に滲む窓の外を一瞥すると、俺はそこにこつんと頭を預けて目を閉じた。
静寂を切り裂く、ドアの開閉音。
ついでふわりと漂った湿り気を帯びた空気と、辺りを舞うボディーソープの甘い香り。
窓ガラスに身体を預けたままで開けっ放しのドアを見つめていると、ぺたぺたと素足でフローリングを歩く音が近付いてきた。
俺と同じ格好でバスルームから出てきた薫くんは、そのまま窓際へと歩を進めてきて。
「髪、びしょびしょじゃん」
俺がそう苦笑してもどこ吹く風で、俺の手からミネラルウォーターのペットボトルを奪い取ると、
そのまま半分以上残っていたそれを綺麗に飲み干した。
先程まで散々貪った白い喉元が無防備に曝されて。
ごくごくと水分がその体内に流れ落ちていく、それだけの光景から、目が離せない。
「薫、くん…」
感覚は刹那的だ。
先程まで散々触れていたその感触に、もう既に触れたくなっている。
頭の天辺から爪先まで満たされていた薫くんという存在は、それほどに甘美で依存性が強かった。
「雨降ってんねや…」
俺がそんなことを考えてるなんて露知らず、薫くんはそう呟きながら俺の肩越しに窓の外を見つめている。
鼻先に、先程まで口付けていた白い肌が近付いて。
甘いボディーソープの匂いが、よりいっそう俺を包み込むように香る。
濡れたままの髪から一雫、俺の肩に水滴が滴り落ちて。
目が眩む。
どうしてこの人はこんなに無防備に。
無意識のうちに人を引き付けて、誘って、離さないのだろう。
伸びた後ろ髪を手で絡めとって、下から掬いあげるようにして口付ける。
「トシ…、っん!?」
驚いたように声をあげる薫くん。
意外だと言わんばかりに見開かれた瞳が、打算も計算もないことを示している。
快感に酔う姿はこれ以上ないくらい妖艶で淫蕩なのに。
無意識に人を誘う仕草やいつまでたっても無垢なままのその表情に、俺は何度だって見惚れて。
おかげでいつだってこっちが悪者だ。
当の本人が漂わせている色香が、どれほど凶悪に俺の理性の手綱を引きちぎっているか、薫くんは全く気付いていないのだから。
「性質わりぃ…」
「ん、ちょっ、トシヤ…ッ!」
浮き上がった白い鎖骨に歯をたてれば、慌てたように俺の肩を押し返してくる薫くん。
髪から雫が滴っては、俺の頬を濡らして。
口元に流れ落ちたそれを口に含むと、心なしか甘い気がした。
「トシヤ、も、無理…!」
焦ったように重ねる言葉。
それは焦れたときに出す、どこか甘えを含んだ声音を思わせる響きをもって空気を揺らす。
身体の中で燻っていた残り火が、ゆらりと揺れて。
音もなく劣情に炎が灯る。
暴れだしそうな欲望は、その甘すぎる蜜が欲しいばかりに花を手折ってしまう感覚にも似て。
でも、その表情が。
今にも泣きだしそうな、切迫した顔が、俺の理性の暴走を押し止める。
加虐心を煽られないわけがない。
けど、今はただこうして身体を触れ合わせてじゃれあっているだけでも良かった。
せっかくこうして二人だけで睦言が交わせる時間を、薫くんの意識を陥落させてまで失いたいとは思わない。
「もうしないから。こうさせてて」
そう言って腕の中で薫くんの身体を反転させ、背中側から抱き込む。
強ばっていた身体から、徐々に力が抜けて。
そのまま擦り寄るようにして身体をもたれかけてくる薫くん。
剥き出しの肌が馴染んで、心地いい。
窓の外は依然変わらず細かい雨が降り注いでいる。
途切れることのないネオンが、水滴に滲んで。
淡く光り輝く、人工的な街並。
ガラス1枚隔てたその場所は、相変わらず無数の人間たちと煩いくらいの喧騒に満たされているのだろう。
「…けだもの」
ほんのわずかに空気を揺らして、ぽつりと呟かれた言葉。
拗ねた子供を連想させる口調に、思わず口元が緩んだ。
あれだけの色香を併せ持つとは思えない、もうひとりの薫くんがそこにはいて。
「薫くんのせいだよ」
ぎゅう、と細い腰を抱き込みながら、その耳元で囁く。
びくりと身体を震わせて、俺の顔を睨み上げてくる薫くん。
伸ばした手で耳たぶを引っ張られて。
「人のせいにすんな。絶倫」
「ひどい言われようだな〜。薫くんだからなのにさ」
それに俺、若いから。
からかい口調で言葉を紡いでやると、べし、と頭を叩かれた。
わざと頭を出しておとなしく叩かれてやる。
悪怯れない俺の様子に、薫くんは俺もまだ若いわ、と唇を尖らせながら文句を言って。
宥める言葉の代わりに頬に口唇で触れると、首が捻られてそのまま口付けられた。
「ほら、こーやって煽るから」
「煽ってない。大体お前、激しすぎやねん」
口唇が触れ合うぎりぎりの位置で、囁きあう睦言。
言葉を紡ぐたびに口唇が触れて。
塞ぐように口付ければ、探るように舌をのばされる。
さっきまでとはうってかわった積極的な振る舞いに、心の中でこっそり苦笑い。
蛇の生殺しとはまさにこのことだ。
冷たい雫を滴らせる髪に指を通して、ぎゅっと握りしめる。
時折酸素を求めて開かれる口から、赤い舌がのぞいて。
静かに響く雨音を掻き消すように零れ落ちる、濡れた音。
ぴちゃ、と唾液が絡まり合う卑猥な音に、燻っていた火は簡単に煽られて。
「ん…っ、トシ……!!」
剥き出しの肌を、ゆっくりとなぞりあげる。
確実に性感帯を探り出す動きで。
そんな俺の意図に気付いたのだろう、薫くんは慌ててその手を押し止めてくる。
絡めていた舌を解いて、距離を置くように頭を離そうとしてる、けど。
「ね、ダメ…?」
いつもなら身長差が逆のために出来ない、上目遣いで薫くんの顔を見上げる。
俺の視線をまともに受けてか、う、とたじろぐ薫くん。
知ってるよ、この視線に弱いってこと。ダメって言えない人だもんね。
「薫…?」
普段は『くん』付けで呼んでる名前をあえて呼び捨てにして。
耳にかかった髪を掻き上げ、露わになった耳朶に口付けを落とす。
ちゅ、と、わざと濡れた音をたてて。
甘く食めば、肩に置かれていた薫くんの手に力がこもるのがわかった。
「ダメ…?」
「も、好きにしろや…っ」
ふい、と視線を逸らして、吐き捨てられた台詞。
背けられた頬はシャワーを浴びたとき以上に紅潮していて。
少し痩けたそこに口付けを落として、その身体を抱き上げた。
窓際プレイもありかもしれないけれど。
身体にかかる負担を考えると、そんな無理強いなんて出来るはずもなく。
甘く乱れたままのベッドに薫くんの身体を降ろして、その上に跨る。
晒されたままの肌に口付けを落とそうと屈み込むと、薫くんの手が慌てたように俺の肩を押し返してきた。
「今更待ったはナシだよ。何?」
不満げに顔を上げて薫くんを見つめると、切れ長の目で俺を睨みつけながらアホ、と悪態をつかれて。
「電気消せや…!」
指差された先には、煌々と付けられたオレンジのランプ。
照明の事なんてすっかり思考の彼方に飛んでいた俺は、あぁ、とめんどくさそうに相槌を打ちながら
薫くんの穿いていたジーンズのホックに手をかける。
「ちょ、お前人の話聞いてんのか!?」
「聞いてるよー。いいじゃん、電気くらい」
どれだけ身体を重ね合った仲だと思ってんの。
お互いの身体なんて飽きるほど見慣れてるでしょ。
…勿論、飽きたりすることなんて有り得ないけどね。
「よぉないわ!消せ!!」
俺の手から逃れるように身を捩って、放りっぱなしになっていたシーツで身体を覆う薫くん。
その顔はさっき以上に真っ赤で。
ホント、これが無意識ってんだから反則だよな。
どれだけセックスしたって、いつまで経っても汚れることを知らないまま。
快楽に溺れれば話は別だけど。
渋々ながらも身体を起きあがらせて照明を落としていく。
光すらも気にさせないくらい溺れさせることだって出来たかもしれないけど、
ここで機嫌を損ねたら今日はもうしないって言い出しそうだったし。
大人しく言うことを聞くに限る。
まぁ、せめてもの抵抗として窓際のブラインドは上げたままにしておいたけど。
照明の落とされた室内は、窓外の微かなネオンが差し込んで完全な闇にはならずに
薫くんの白い肌を浮かび上がらせていた。
身体に覆い被さるようにベッドに手をつけば、響くスプリングの音。
視覚よりも聴覚が敏感になる闇の中で拾う衣擦れの音は、やけにやらしさを助長させてる気がする。
「薫…」
指を滑らせて、探り当てた口唇に自分のそれを近付けて。
吐息がかかりそうなほど距離を詰めると、焦れたように俺の首に手を回して引き寄せてくる薫くん。
そのまま、奪い合うように口付ける。
先程までの行為の残り火を引き出すように最初からやわらかく口内を蹂躙すれば、
それに応えるように舌が蠢いて。
唾液が絡まり合う濡れた音が耳につく。
そこから本格的な行為に縺れこむまでに、そう長い時間はかからなくて―――
「はぁっ、う………」
細い腰を両手で固定して、薫くんの中に沈み込む。
今宵だけで幾度重ねたかわからない身体。
溶けそうに熱く俺を迎え入れるそこは、やわらかく俺を誘い込むように蠢いて。
「かおる……」
きつく締め付けてくる感覚をやり過ごしながら、口唇を求める。
短く熱の籠もった吐息を零していた薫くんは、閉じていた瞳を薄く開いて
口付けを求めるように口を開いて。
差し出された舌を絡め取るような口付けを仕掛けながら、
ゆっくりと膝裏に手をかけて脚を広げさせた。
「んぅ、ッ!」
口を塞いだままに奥まで突き込むと、くぐもった声が漏れて。
少し口唇を浮かせると、は、と熱い吐息が鼻先を掠めた。
そのまま軽く抽挿してやると、薫くんが白い首筋を露わにして仰け反る。
思わず目を細めて、そこに歯を立てた。
汗で湿った身体が、シーツの波間を潜るように揺れる。
海中を漂う魚にも似たその姿は、ただ綺麗で。
肌を掠めるように口付ければ、感じる潮に似た味覚。
そんな薫くんに溺れてる俺は差し詰め―――溺れる魚、だろうか。
「や…っ、トシ……ッン、く…!」
胎内に馴染んだのを確認してからゆっくりと律動を開始すると、腕の中で薫くんが甘い嬌声を上げる。
その声に苦痛の色は見られない。
誘い込まれるがままに抽挿を繰り返せば、軽く首を打ち振りながら快感に耐えていて。
「トシヤぁ…っ」
鼻にかかった甘えた声が俺の名前を呼ぶ。
縋り付くように背中に回された手。
汗で滑るのか、突然短く切り揃えられた爪を立てられ、思わず痛みに呻いた。
やわらかい肌を抉られる感覚。
流れた汗が沁みて、でもそれすらも快感にすり変わって。
「薫…」
絶え絶えな息の合間に、口付けを求め合う。
濡れた音と、肉を穿つ音と、短い呼吸音と、ベッドの軋む音が
混ぜこぜになって、俺たちを煽りたてていく。
身体を走り抜ける、この感覚だけが全てで。
曖昧に俺を見つめている薫くんの瞳が、熱に浮かされて潤んでいるのが見えた。
快感の波間を泳ぐ薫くんも、差し詰め溺れる魚、だ。
じゃぁそんな薫くんに溺れてる俺は一体何なんだろう。
骨抜きであることには変わりはないけれど。
やっぱり、溺れる魚、なんだろうか。
溺れさせるのも、溺れさせてるのも、お互いだなんて。
これ以上幸せなことはきっと他にはない。
泳ぐのが当たり前の魚が溺れるっていうのは、きっと俺たちが呼吸の仕方を忘れるのと一緒。
それくらい、夢中なんだよ。泳ぐのを、呼吸の仕方を忘れてしまうほどに。
お互いに溺れてるんだ。
雨は降り止む気配すら見せない。
やわらかい檻に包まれたままの密室空間で、恋人の海に溺れる。
俺はたぶん、世界でいちばん幸せな―――溺れる魚。
END
ネット断ち中に携帯で書いてた話
テーマは『そこはかとなく漂うエロ』
もうしないって言ってるわりに手ぇ出してるとっちに書いてる本人が一番吃驚です(何
こういう雰囲気の話は好きです たぶんまた書く