初めて体温を溶かしあった日
キス
小さく息を吐きながら、空を見上げる。
満月の夜。
眼下には眠らない夜の街が煌びやかに輝いていて。
「さむ…」
トシヤは小さく呟くと、マフラーに顔を埋めた。
ツアー先のホテルの一室で。
めずらしくテラス付きの高層ホテルだったこともあって、
トシヤは先ほどから何をするわけでもなく、
寒い中テラスに出てぼんやりと眼下の景色を眺めていた。
こんな景色は東京に出てきてから見慣れてしまったはずなのに。
不意にがらら、と引き戸の開く音がして、
ふわりと暖かな空気が辺りを揺らす。
「トシヤ、何しとん」
そう声をかけたのは、この部屋の本来の宿泊客であるダイで。
「お前風邪ひきやすいんやから、はよ部屋入り」
ダイはそう言って、テラスにもたれかかったままだったトシヤの体を
強引に部屋に引きずり込んだ。
引き戸の窓を閉めて、鍵もかけて。
その間もぼんやりと窓の外を見つめたままのトシヤの体を、背後から抱きすくめる。
「どないしたん。こんなに冷えてんのに、ぼーっとして」
疲れたん?と耳元で囁いてやると、くすぐったかったのか
トシヤは身を捩るようにして首を横に振った。
ぱさぱさと寒さで冷えた髪が乾いた音をたてて揺れる。
「…何かさぁ、似てない?」
「何が?」
普段とは違って、ゆっくりとした穏やかな口調で話し始めたトシヤの首元に
唇を落としながら、ダイは少し声のトーンを落としてたずね返した。
反らせた首元、露わになったそこに唇を落とされるのを
自由にさせたままで、トシヤが小さな声で答える。
「初めてキスした場所に」
「…そう、やっけ?」
ちゅ、と音をさせて口付けをやめると、ダイはトシヤの肩に
顎を乗せて眼前に広がる景色に視線を落とした。
あれは、付き合いだして間もない頃。
バンドもちょうど駆け出しの頃で、当時は今じゃ考えられないくらい
プラトニックな恋愛をしていた。
別々の仕事が入ったりして、すれ違うことすらままある今とは違い、
四六時中一緒にいる相手との突然の関係変化。
昨日まで友達だったのがいきなり恋人になったからといって、
何もかもがそううまく移行するはずもなくて。
その上同性同士の恋愛。戸惑いがなかったわけじゃない。
ただそのときは、同じ空間にいるということだけで満たされていた。
いや、満たされてる、と思い込もうとしていたのか。
指先が触れる、そんな些細な仕草にひどく照れていたけれど、
2人ともそれ以上どうすればいいのか考えあぐねていた。
今までならそれ以上に進むのなんて当たり前で、
そうするための術だって心得てきたはずだった。
だが今回は、マニュアルを外れた恋愛に2人して戸惑い、困惑していた。
それでも、触れて、キスして、溶け合いたいと。
本能が告げる欲求の我慢をきたしたのは、果たしてどちらの方だったのか。
その日、天気が良かったからドライブにでも行こうか、と2人で遠出した。
財布の中にはバイトして貯めたなけなしの金。
後にお互いが同じコトを考えて財布にお金を詰めていたというのだから
今考えると笑ってしまう。
とにかくそのときは2人とも必死だったのだ。
同じだけ熱に飢えて、同じだけ熱を欲していた。
避暑地の代名詞と言われるところまでひたすら車を走らせて。
取り留めもない会話を繰り広げていたけれど、
お互い余裕がないのは一目瞭然だった。
ただ、単純にそこに及ぶまでのきっかけをつかむことができず。
時間と車のメーターばかりが刻々と増えていく中で、
辿り着いたのは山奥の小さな展望台だった。
「すげー!!ダイくんダイくん、見て、すっげーキレイだよ!!」
山頂から見下ろす街並みは予想を遙かに上回るもので。
無邪気に手摺りから身を乗り出すトシヤを少し後ろから見つめながら、
落ちんなよ、と笑ってダイが煙草に火をつけた。
ふわりと辺りに紫煙が舞う。
しらばくはいつもの調子で騒いでいたトシヤだが、手摺りに腕を置いて
その上に顎を乗せたまま黙りこくってしまうと、ことりと静かになった。
静かになっていたのはダイも同じで。
眼前の景色に目を奪われたまま、それでも意識は必死に言葉を探していた。
―――焦がれていた存在を手にするために必要なキーワードは、一体何?
夏の緩くてぬるい風が、辺りの木々を揺らして沈黙の隙間を通り抜けていった。
「…トシヤ」
考えれば考えるほど、スマートになんてコトを運べそうにない。
ダイは思い切って一歩足を踏み出すと、
闇に溶け込んでしまいそうな後ろ姿をそっと抱きしめた。
―――この感情を伝える術は、言葉よりももっと雄弁な、行動
びく、と一瞬大きく震えた身体。
それでもトシヤが腕の中で抵抗を見せることはなかった。
「なぁ…。
ちょっと、先に進んでもええ?」
頬に手をあてて振り向かせる。
その言葉の意味するところは、トシヤにもはっきり伝わったらしい。
泣き出しそうな表情のトシヤが、潤んだ瞳を伏せて、小さく小さく頷いた。
―――そうしてしずかにふれた、くちびる
一瞬だったそれは、それでも2人にとっては永遠に等しいもので。
引き寄せられるようにもう一度唇を寄せ合う。
トシヤはダイの首に手を回して
ダイはトシヤの身体を更に強く抱きしめて
お互い堰が外れたように、夢中で求め合った。
トシヤの吐息で滲んだ窓の向こうは、なるほど言われてみれば
そのときに見た景色に見えなくもない。
ダイはトシヤの身体を抱きしめたままでそう答えると、
でしょー?とトシヤが嬉々として頷いた。
「懐かしいねー」
「そうやなぁ…」
懐かしい、というよりも、こっぱずかしい思い出に、ダイはトシヤに見えないようにして
少しため息を漏らす。
若かったんやな、なんて思いながら、それでも悪い気はしない。
あの頃手を伸ばすのでさえ躊躇っていた恋人は、今では誰よりも近い場所にいる。
この距離は、自分たちが時間を重ねて作り上げてきたもの。
それを思うと、言葉に言い表せないような幸福が胸を満たしていく。
トシヤは小さく身じろぎしてダイの腕の中で体勢を変えると、ふわりとダイの首に手を回した。
「その後どうしたか、覚えてる?」
「勿論」
唇が触れあうギリギリの位置で囁きあう言葉は、睦言以外の何物でもない。
「続きはベッド?それとも風呂?」
「ダイくんサイテー。最初から風呂でヤるつもりだったの?」
「今は風呂ためてるからや!」
何度も何度も、啄むように口付けを繰り返しながら囁きあう言葉。
やがてその影は縺れこむようにして近くにあったベッドに雪崩れこんだ。
『トシヤが欲しい』
あの日、
トシヤの耳元で囁かれた掠れたハスキーヴォイス
ダイの目に映った濡れた熱っぽい瞳
その存在は、今もなお、
お互いの胸を焦がし続けている
END